始まりのアリス

始まりのアリス(1)

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1.始まりの目覚め


 眠気を誘う木漏れ日が、教室の窓から差し込む昼下がり。

 大学受験を控え、他の生徒たちは必死にノートを取っているが、もとよりうわの空の影山は、硬い無機質の机に片腕で頬杖をついてまどろみに落ちる。
 教壇に立つ若い担任教師の、仮定法過去完了を説明する声は、もう耳に届いていない。

 陽光の為か、今はもう完全に閉じきった瞼の奥に映る色は、黒ではなく白。
 形のない、真っ白な世界。そこに、突然何かが飛び込んできた。

「……ウサギ!?」

 呆気に取られ、影山は声をもらす。あまりに唐突な上、白い世界に白ウサギ。見た目もまったく分かりづらい。

「Oh dear! Oh dear! I shall be too late! (ああ、困った。遅れてしまう)」

 白ウサギは、上着のポケットから取り出した懐中時計に目をやると、そう言って走り去っていく。

「ちょっと待て。ウサギが、なんで英語話してるんだよ」

 日本語だろうが英語だろうが、ウサギが二本足で走り、言葉を話すことに驚くべきだという理性的判断ができるはずもない。なにせ、今は夢の中なのだから。

 いつの間にか机に突っ伏した影山が目を覚ましたのは、空が茜色に染まった頃。
 担任の英語教師と数人のクラスメイトの手により、強制的に現実に引き戻された。

「やっと起きたか」

 影山の学生服の喉元を持ち上げていた担任教師が、ほっと息をつき、振り上げた手を止める。

「な、なにすんだよ!」

 すでに一発目を食らい、赤く腫れた左頬。体を揺り動かして起こせばいいものを、教師は平手打ちをかましたらしい。
 PTAや保護者がうるさい、このご時世。文句のひとつも言ってやろうとした影山は、教師や友人の、あからさまに安心した表情を見て、先が続けられなくなった。

「え……。どうかしたの?」

 と、間の抜けた言葉を口にするのが精一杯。学校で居眠りして心配されるのというのも、珍しい。
 担任は周りの学生と顔を見合わせると、教室の壁掛け時計を示した。

「それはこっちが聞きたい。ピクリとも動かずに眠ってたんだぞ、お前」

 時刻は十六時半。つまり、三時間は眠っていたことになる。授業の合間の休み時間は、いつ終わったのだろう。
 よくそれほど眠れたものだと自分自身に呆れつつ、影山は腕を上げて伸びをする。

 さすがに無理な体勢で長時間寝ていたせいか、体のあちこちが痛い。おまけに、耳がおかしい気がする。電波の受信状態がよくないラジオのように、断片的にしか声が拾えない。

(あれ、音がない……?)

 やがて途切れ途切れの声さえも消え失せ、影山は首をかしげた。

「さっきから、みんなの声聞こえないんだけど」
「誤魔化すな。今俺と話してるだろ」
「……兄貴の声と自分の声は、聞こえてるよ」
「『先生』だ、学校では」

 そうやって自分を叱る担任の英語教師、すなわち矢車の声は、確かに聞こえる。けれど、何事か叫ぶクラスメイトたちの声が、影山の耳にはまったく届かなかった。人の声と物音に、フィルターがかけられた感じだ。

「耳が、変なんだ」

 聴覚を取り戻そうと、影山は耳をぽんぽんと叩いてみた。
 寝ているうちに、鼓膜がどうかなったのか。先程の矢車の強烈なビンタのせいということも考えられる。
 明確に聞き取れるのは、自分自身と矢車の声と。それと、もうひとつ、夢の中の白ウサギ。

「“I shall be too late.” って、どういう意味だっけ?」

 顔を上げた影山は、目の前の英語教師に尋ねた。

「……意味は、“遅れてしまう”。“I will” の方が、今は一般的だな。shallは、どちらかといえばイギリスの昔の言い方だ」

 突拍子もない質問に眉を寄せながらも、矢車は答えを返す。
 ぼんやりとした影山の様子は明らかにおかしく、どうにも要領を得ない。

「ちょっと待ってろ。みんなを帰すから」

 矢車は、他の生徒に心配ないと伝えて帰宅を促した。
 ぎこちない笑顔を浮かべ、影山は教室から出て行くクラスメイトを見送る。ドアを開ける音、駆けて行く足音、そのすべてが耳に入って来ない。周囲は相変わらず無音だ。

「お前、全然俺の授業聞いてなかったろ」

 教室に二人だけになったことを確認し、矢車が影山の前の椅子に腰掛けた。
 血がつながっているわけではなく、名字も別々。それでも、三年前大怪我を負った影山を矢車が助けて以来、二人は兄弟のような関係だった。

「……で、それだけ?」
「え?」

 鋭い矢車の眼差しに、影山はびくりとする。

「お前の話は、それだけかと言ったんだ」
「え、っと、その。俺……、なんで聞こえなくなっちゃったのかな」

 静寂の恐ろしさが、今頃じわじわと影山の心を侵食してきた。

「普通、それが最初の質問だ。バカ」

 溜息混じりに言って、影山の頭を軽く小突く。

 先程の英語は、授業の際、副教材として使った『不思議の国のアリス』の白ウサギの台詞。しかし、授業中たいてい舟をこいでいる影山は記憶の欠片も残っていなかった。

「俺の声が聞こえてるなら、鼓膜がどうこうってわけじゃないな。医者へ行っても仕方ないだろう」
「じゃあ、俺はどうすれば」
「とにかく、今夜は様子見。明日もそのままなら、学校は休め」
「……うん」

 励ますように背を叩く矢車に、笑顔を返すことさえできない。重力に押しつぶされた心持ちで、影山は力なくうなだれた。



※別ブログに書いていたものを、地獄兄弟に改変した異世界パラレルです。
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