始まりのアリス

始まりのアリス(6)

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 青虫と出会って以来、矢車は頻繁に時間を気にし始めた。足早に進む後姿を、影山が半ば駆け足で追いかける。
 食事はおろか休憩すら満足に取っていないのだから、現実ならとっくにバテているだろう。

「これからどうするのさ、兄貴」
「エンディングへ行く。白ウサギもそこにいるはずだ」

 目的地は、『アリス』の最後の舞台となるトランプの城。どうやら矢車には思うところがあるらしい。何も話してくれないものの、城へ着けば分かることなので、影山もあえて尋ねない。

「城へ入るには、招待状がいるよ」

 突如、しゃがれた声が頭上から降って来た。張り出した枝の上で、大きな猫がニヤニヤ笑いを浮かべている。
 正確には猫が大きいのではなく、そもそも今の二人の体が小さい。

「招待状? クロケー競技のか」
「そう」

 足を止めた矢車は、疑わし気に目を細めた。猫と矢車は、まるで顔見知りであるかのように言葉を交わしている。

「どうすれば、城に入れる」
「公爵夫人宛の招待状を、もらってくればいい」

 言っている傍から猫の姿は徐々に消えていき、すぐにまた別の木の枝に現れる。そうして誘導されるがまま、矢車と影山は森を走った。

「公爵夫人の家、あそこ」

 赤い洋館の屋根が見えた時、猫はいなくなった。枝の揺れも葉のざわめきも起こさず、空気に溶けてしまった。

「……なんなんだ、あいつ」
「チェシャ猫だ。『アリス』で有名な」

 目を丸くする影山に、なぜか忌々しそうに矢車が説明する。
 チェシャ猫は公爵夫人が飼っている猫。一応家族の一員に案内されたのだから、これは正式な招待と言えなくもない。

 しかし公爵夫人は留守なのか、ドアの前で何度ノックしても返事がなかった。屋敷に鍵は掛かっておらず、ドアノブを回せばカチャリと軽い音を立て扉が開く。

「ま、許可ももらったことだし。入らせてもらうか」
「ちょ……、兄貴!」

 躊躇なく奥のリビングへ向かう矢車を、影山は慌てて止めようとした。が、中へ入って間もなく、猛烈な焦げ臭さが鼻を突く。不法侵入の事実も忘れ、影山はキッチンでグツグツ音を立てる大鍋に走り寄った。

「ハックシュン!」

 立ち上る煙を吸い込んだ途端、大きくくしゃみ。

「ゴホッ、な、なんだよ、これ……っ」

 キッチンにはコショウまみれの煙が充満し、ちょっと吸い込んだだけでもくしゃみが止まらない。影山はくしゃみと咳を交互に繰り返し、涙目で、火にかけっぱなしの鍋によろよろと近づいた。
 ガスレンジらしい昔の調理器具は、火を止めたくとも消し方が分からない。

「ハ……ックシュン! あー、もう!」

 止まらないくしゃみに閉口し、窓の留め金に手を伸ばした影山よりわずかに早く。

「何やってんだ、お前は」

 と、横から現れた別の手が留め金をはずし、窓を大きく開け放った。

 サァッと、新鮮な外気が室内に流れ込む。
 澄んだ空気を肺にいっぱいい入れて深呼吸すると、影山の鼻はようやく落ち着きを取り戻した。

「助かった。ありがと、兄貴」

 手早く火を止める矢車を感嘆の眼差しで眺めつつ、近くにあったキッチンペーパーで鼻をかむ。
 リビングへ向かった矢車は、すでに用事を済ませていた。泥棒の平均滞在時間は五分間だとか。

「それ、城へ入るための招待状だよね。お札とか小切手が入ってる、なんてことないよね」
「……よっぽど、俺を犯罪者にしたいようだな」

 矢車は呆れて息を吐き、見てみろ、と手にした白い封筒を影山の掌に落とす。
 凝った王冠の封蠟が施された封筒の中には、厳かなカードが一枚入っていた。

(読めない……)

 文字はすべて英語の筆記体。書かれた内容を理解できるわけもなく、影山はむなしくカードを矢車に突き返した。





 公爵夫人の屋敷を後にし、小道を進むにつれ、ますます木々が鬱蒼と高く生い茂ってきた。
 城へ行くのはもちろんとして、とにかくまずは森を抜けたい。

「……また、お前か」

 ふいに矢車が立ち止まり、木の上を振り仰いだ。
 視線の先には、公爵夫人のチェシャ猫がいる。ゴロゴロと喉を鳴らす仕草はまさに猫なのに、特異なニヤニヤ笑いのおかげで、どうにも猫らしくない。

「トランプの城、こっち」

 チェシャ猫は頭上の枝から枝へ、消えたり現れたりを繰り返しながら移動していく。道案内をしてくれるようだ。

「言っとくけど、城へ行っても、夢から覚めないよ」

 地上を走る人間たちを眺め、ニヤニヤと告げる猫。いきなり核心を突かれ、影山の心臓が跳ねた。現実世界へ戻るため白ウサギを探している事情を、どうしてかこの猫は知っている。

「そこにある花、食べてみる?」

 チェシャ猫が枝の上から前足でひょいひょいと下方を示した。木の根元に、スズランに似た白い花が咲いている。

「食べれば、元の世界に戻れるのか?」
「食べてみる?」

 怪訝そうに尋ねる影山に、チェシャ猫は挑発と思えなくもないニヤニヤ笑いを返すだけ。
 影山が屈んで可憐な白い花に手を伸ばしかけた時、矢車の鋭い声が遮った。

「いい加減にしろ」

 矢車は影山の腕を押さえ、チェシャ猫を睨み付けた。猫の方は、怒気をはらんだ視線や声を物ともせず、飄々と続ける。

「奇跡が起こるかもしれない。それは『妖精の手袋』だから」
「妖精の手袋?」

 幻想的な単語に、影山は興味を引かれた。

「その花の英語名は、fox glove(狐の手袋)。folk’s glove(妖精の手袋)は、そのもじりだ」
「……ふーん」

 苦々しい顔で木の上を見上げたまま、矢車が説明する。絶対口に入れるな、と念押しされながらも、影山は白い花を一房手折った。

(かわいい花なのにな)

 猛毒だというジギタリス。キノコでひどい目に遭ったばかりなので、影山としても食べるつもりは毛頭ない。
 けれどどうしても捨てきれず、花の房をそっとポケットに入れた。
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